都市大学生の蛇足

日頃考えている事を整理するために書きます。めっちゃ暇な人は足を運んでみてはいかがでしょうか。

カラオケ好きから見た、カラオケ嫌いの本質

どうも、某都市の大学生です。

私はカラオケが好きで好きで、一人カラオケにしょっちゅう行くタイプなのですが、周囲の友達がカラオケ不得意な人が多くて、行く人がいません。(友達がいないという事は置いといて)

そこで、カラオケ好きな私が、「カラオケ嫌いな人」について考察してみます。(というか、カラオケ嫌いな人の心情に気づきたい)

持論なのですが、カラオケ自体を本気で嫌っている人って、実はいないんじゃないかなって思ってます。

歌う事自体はみんな好きなのに、過去のカラオケのトラウマや、変にいじられた事による自責の念による経験が、カラオケが苦痛に感じる事の足かせになっているケースがほぼなんじゃないかって。

もし、音痴で歌が下手な人=歌う事が嫌いな人であるならば、ボイストレーニングにかよい、「少しでもうまくなって、カラオケの場で一石を投じたい!」という人はいないor少ない事になる。しかし実際、ボイトレに通う人で音痴な人は沢山いる事から、やはり、歌うこと自体が嫌いな人はほぼいないのだと思う。

ここでは、日本で根強い風習でもある、カラオケという場に「カラオケ嫌い」の原因の根本があるとみていくとする。

まず、カラオケの採点機能を入れる風習にも問題がある。とりあえず、皆でカラオケに行ったら採点機能を即入れる人。これは、私もやっていたのですが、今ではあまりよくないと考える。

人の歌を数値で採点し評価可能にしてしまう事は、必然的に自分と他人との歌の上手い・下手さを比較する事になるからです。本来、歌が上手いか下手かなんて、機械で測れるわけもないのに。(最近はAIの進歩で改善されているが)

歌が下手なひとにとっては、こんなもの地獄でしかないでしょう。他者が80点台なのに、自分は頑張っても70点台なんで状況が起きたら、と思うと夜も眠れない。

本来、カラオケに行く理由は『叫んで、みんなでワイワイやって盛り上がり、ストレスを発散したり、楽しむため』であるのに、いつの間にかカラオケという場は、皆より悪い点数を取りたくない、恥をかきたくない、といった競争の場になってしまっている。

さらに、その場にくそ歌の上手い人がいたら最悪だろう。その後はその人と比較されるので歌いづらいし、そいつがハイトーンでプロレベルで歌い上げたとしたら、周りは一オクターブ下で歌いづらくなってしまう。場が盛り下がるのだ。つまり、そういうものは求められていないのである。(私はその立場なので、上手いのを隠したらよいのか、まだ模索中)

カラオケは密閉された空間の中大人数で歌う為、打ち上げ等で行くような気の知れない友達と行く場合、お互いの空気の読み合い合戦が始まる。「一番目に誰が、何を歌うのか、皆が乗れるのようなメジャーな曲でないといけない・・・etc」そんなことを考えねばならないのだ。非常にめんどくさい。(そんなとき、「皆自分の歌いたい曲を歌えばいいんだよ」とほざくやつがいる。そんなことは分かっている。それが行えるのは、強靭なハートの持ち主か、その場でのカースト上位の奴等の身分の高い人達であろう。)何はともあれ、そういった空気の読み合いが嫌いだから=カラオケは嫌いという人もいると思う。現に、一人カラオケが求められてる事からも、皆心の底では「自分の歌いたい曲を歌いたい!でも・・・でも・・・」と悩んでいる人がいるのだ。なんと世辞辛い。

結論、小学校から今まで、テストやら模試やらで他者と比較し、競争を強いられてきた根深い意識が、カラオケにも浸食している事にこそ問題があると言える。

カラオケルーム内は狭い空間であるからこそ、同調圧力が生じやすく、集団心理が生じやすい。よって、音痴である=歌が下手である=点数が取れない、カラオケルーム内での社会的弱者が、嘲笑の的にされやすく、トラウマを植え付けられやすいのだ。

少なくとも自分は、そういった事は避けたいものだ。